フランス革命のバスティーユ牢獄襲撃は有名だが、囚人は少なく兵士は老兵数人。更に、捕えられていたのは『悪徳の栄え』などで有名な背徳作家、マルキ・ド・サド侯だった
**解説:**
フランス革命の象徴的出来事であるバスティーユ牢獄襲撃(1789年7月14日)は、革命勃発のきっかけとして知られています。しかし、その実態はイメージとはやや異なるものでした。
当時、バスティーユ牢獄に収監されていた囚人はわずか7名。内訳は、詐欺師、精神疾患を患う者、貴族の命令で収監された者などでした。かの有名なマルキ・ド・サドは、襲撃の10日ほど前に精神病院へ移送されており、実際にはバスティーユにはいませんでした。彼は過激な言動で他の囚人を扇動したため、当局によって移送されたのです。
守備兵は老兵を中心とした80名ほどで、牢獄としての機能も低下していました。にもかかわらず、バスティーユが襲撃されたのは、そこが武器庫として機能しており、民衆は武器と弾薬を求めていたからです。また、バスティーユは王政の権威の象徴と見なされており、その破壊は革命の正当性を主張する上で重要な意味を持っていました。
襲撃は激しい戦闘となり、多数の死傷者が出ました。最終的にバスティーユは陥落し、その後のフランス革命の激化を招くこととなりました。バスティーユ襲撃は、その実態以上に、革命の象徴として、また民衆の自由への渇望を体現する出来事として記憶されています。
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